文/東 敬子(ひがし けいこ)フラメンコ・ジャーナリスト
Text: Keiko Higashi
どことなく東洋的な、魅惑的な仕草。ほとばしる情熱の影に覗く、憂いを秘めた横顔。高鳴る鼓動の野生的なリズム。フラメンコには、スペインのエッセンスがぎゅっと詰まっている。
2010年にユネスコの世界無形文化遺産に登録され、名実共に世界の音楽・舞踊ジャンルとなったフラメンコが、現在の形に整ったのはジャズとほぼ同時期の19世紀ごろと言われるが、ここに至るまでの道のりは長い。
イベリア半島では、紀元前より様々な民族の侵略・支配が繰り返され、8世紀から15世紀までの約800年間は、イスラム勢力下にあった。しかしイスラム勢は侵略当初、土地の宗教を排除することはせず、その結果、中心部として栄えたアル・アンダルース(現在のスペイン・アンダルシア地方)では、ユダヤ、イスラム、キリストの3教が共存する、現代の常識をくつがえすような文化が花開いた。
「人類史上、希に見る理想郷」と呼ばれるこの地の文化が、フラメンコのルーツとなる。そしてそこに、11世紀に北インドを追われ、中東、北アフリカを経由して15世紀にスペインにたどり着いたとされるロマ民族が、様々な土地のエッセンスを吸収した独自の文化を加える。そう、フラメンコはまさに、文化のるつぼなのだ。だからこそフラメンコの情熱や繊細な情感の綾は、民族の垣根を越えたユニバーサルな魂の表現となって、奥深く人々の内面に入り込む。
カンテ(歌) に始まり、後にギター伴奏が加わって、19世紀末ごろに全盛期だった「カフェ・カンタンテ」と呼ばれる居酒屋でショーとして披露されるようになると、バイレ(踊り) も盛んになった。スペイン内戦(1936~1939)が勃発すると、多くのアーティストが自由を求め国外に逃亡し、踊り手のカルメン・アマジャやグラン・アントニオ、ギターのサビーカスなど、世界的スターが誕生した。
スペイン国内では、20世紀半ばにフラメンコを専門に見せる小劇場「タブラオ」が生まれ、観光名所として発展した。独裁政権が終わり民主主義に移行した1975年以降は、大劇場でも頻繁に上演されるようになった。
その立役者となったのが舞踊のアントニオ・ガデス、そしてギターのパコ・デ・ルシアだった。
ガデスは伝統に新しい創造の扉を開き、フラメンコ舞踊を舞台芸術へと発展させ、ビフォー・アフターをもたらした。映画監督カルロス・サウラとタッグを組み、主演も務めた映画『カルメン』(1983)は世界的ヒットとなり、日本でも、この映画を見てフラメンコ・スタジオに走った人は多い。
パコ・デ・ルシアはジャズとのセッションを通してフラメンコギターの世界的地位を確立。また、天才カンタオール(カンテの歌い手)・カマロンの伴奏及びプロデュースで、カンテ界にも新風を巻き込んだ。
その流れからギターやカンテでは、その後はパコやカマロンに習い、伝統的なものと他ジャンルとのセッションの両方をこなすアーティストが主流となった。
一方バイレでは、90年代に入るとガデス舞踊団から独立したマリア・パヘス、スペイン国立バレエ団から羽ばたいたアントニオ・カナーレスやホアキン・コルテスなど、自身のルーツは守りながらも、他ジャンルの舞踊や音楽を取り入れることを恐れない新しい波が現れる。そして当時はそれを非難した識者や観客も、次第にオープンになり、現在では、マヌエラ・カラスコやファルーコ一家に代表される、伝統を守る「フラメンコ・プーロ(純粋なフラメンコ)」から、イスラエル・ガルバンやロシオ・モリーナの超・前衛的な「フラメンコ・モデルノ(現代フラメンコ)」まで、スタイルは様々だ。そのどれもが、フラメンコ舞踊の更なる発展を担っている。
フラメンコは、実はとても難しい踊りだ。音楽には数多くの曲種があり、独特のリズムパターンを持つ。しかも、フラメンコ・ダンサーは踊りながら足を打ち鳴らし、あたかも人間パーカッションとなってその演奏に参加するわけだから、それをこなすには舞踊の技術と共に、音楽家レベルの完璧なリズム感が必要となる。さらに、前時代的なロングスカートの裾をさばきながら踊り、そこにアバニコ(扇)、マントン(大型ショール)、バストン(杖)、パリージョ(カスタネット)など、様々な小道具が加わるわけだから、まったくもって、尋常ではない。
しかし技術以上に大事なものは、魂の奥底から訴える何かだ。それがあるからこそ、フラメンコは人々の心を打つ。だからこそ、涙がこぼれる瞬間がある。それが無ければ、フラメンコではない。
フラメンコには、天高く舞い上るような、西洋のダンスのイメージはない。地に足を付け、自分の中に宇宙を探す。フラメンコの熱は、演じる彼ら、そしてそれを見つめるあなたの中から、共に生まれるのだ。