文/東 敬子(フラメンコ、スペイン文化ライター)Text: Keiko Higashi(Kバレエカンパニー『ドン・キホーテ』公演パンフレット掲載 2015)
人類史上、最も読まれている本と言えばダントツで聖書だが、それに次ぐナンバー2に輝くのは、近世スペインの作家・戯曲家ミゲル・デ・セルバンテス(1547~1616)が書いた長編小説『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(1605/後編1615)、そう、バレエ『ドン・キホーテ』の原作である。

400年もの間親しまれ続けるこの超ロングセラーは、2002年には、世界54ヶ国の文学者100人が選ぶ「史上最高の文学百選」で堂々の第1位に選ばれた。スペインが生んだこの最大の文化人が後の文学に与えた影響は著しく、1976年に設けられた「セルバンテス賞」は、スペイン語圏内における最高の文学賞と称されている。また現在、世界20ヶ国に設けられている「セルバンテス・センター」では、スペイン文化の普及の為の様々な活動が行われている。
しかし残念ながら、天才が苦難を強いられるのは世の常である。モーツァルトも、ゴッホも、そして当然のごとくセルバンテスも、その輝かしい創造とは裏腹に、お金という報酬とは無縁の極貧生活を送った。今頃彼は天国で、自分の顔が掘り込まれているユーロの50セントコインを眺めながら、皮肉なものよと笑い飛ばしているに違いない。そう、彼独特のユーモアで。

セルバンテスは1547年、下級貴族(イダルゴ)出身で外科医だった父の元、マドリード近郊のアルカラ・デ・エナーレスに生まれた。しかし幼少期から幾度となく繰り返される父の仕事の失敗で、家族は借金に追われ、バジャドリード、コルドバ、セビリア (セビージャ)と、各地を点々とする。そして1566年19歳のとき、父がマドリードで新しい仕事に就くと、セルバンテスは人文学者ロペス・デ・オヨスに学び、作家としての人生をスタートさせる。
しかし、1569年に、教皇庁の特使の従者としてイタリアのローマに渡ることになり、その後、一転してナポリでスペイン海軍に入隊。レパントの海戦、ナヴァリノの海戦などに従軍する。だがスペインへの帰国を前にバルバリア海賊に囚われてしまう。彼は捕虜として過ごした5年間に4回脱出を企てるが、いずれも失敗に終わった。
その後ついにキリスト教団体「三位一体会」の助けによって、奇跡的に救い出された彼は、1580年33歳でスペインに帰国。本格的に作家としての活動をスタートさせ、小説、戯曲、詩など、様々なスタイルに挑戦するが、1585年に出版した初めての小説『ラ・ガラテア』は泣かず飛ばずで、6人家族を抱える彼は、それから60歳近くまでの長い間、経済的に相当な苦労を強いられることになるのだ。
1588年41歳になったセルバンテスは、無敵艦隊から食料調達係の仕事を得て、アンダルシア各地を回る生活を送るようになるが、1592年には小さないざこざで投獄されてしまう。その後1594年47歳で徴税の仕事に就くも、取り立てた税金を預けておいた銀行が破産し、その分を負債として負わされ、払いきれず、1597年にまたもや投獄。加えて、恋愛も上手くいかず、恋人との間に娘が一人生まれ、認知するも関係は崩れ、37歳で別の女性と結婚するが、それも2年ほどしか続かなかった。
まさに、ふんだりけったりの連続。だが、そんな彼にもやっと、大きな転機が訪れる。同時代を生きたシェイクスピアも読んだと言われる小説『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』は、セルバンテスが58歳にして得た大ブレイクだった。この作品は、出版されるやいなや大評判を呼び、増版を重ね、続編も出版される大成功を収めた。
生活費を得る為に、彼は、その出版権を早々に売ってしまい、1616年にマドリードで、ついに裕福とは無縁だった68年の生涯を閉じるが、その才能は最後まで枯れることなく、晩年には『模範小説集』(1613)、『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』(遺作1617)などの代表作を生んだ。ビックリするぐらい波乱万丈な人生だったが、その経験があってこそ、彼の作品群は臨場感をもって人々の心に焼き付き、今も尚、生き続けている。
騎士道小説が大好きで、日々、読みふけっていた下級貴族の老人が、突如、自分も騎士になって絶世の美女を怪物から守ろうと、お供を連れて、武者修行の旅に出た。現実と二次元の世界を行ったり来たりして、騒動を巻き起こすドン・キホーテは、セルバンテスが疲れた心を癒す白昼夢で見た、自分自身の姿だったのかも知れない。
